煤と膠と香料と [音楽]
ベートーヴェン/ピアノソナタ第32番ハ短調op..111
第1楽章 マエストーソ アレグロ コン ブリオ エド アパッシオナート
第2楽章 アリエッタ .アダージオ モルト,センプリーチェ エ カンタービレ
何度聴いても掴みどころがなくて、水の底が見えてるはずなのに覗きこむと蒼く澄んだ水の底は息を止めていられる間にはとても届かない。
すべてが濃く粘着力のある煤のような、指先についたが最後容易に洗い流せない個性が到達した音化した情熱の最終形態。
その意志の濃さと有機的に結びつく精神の浄化。
極めて個人的で主観的な音楽の自由が白い和紙の上に墨痕として太く残ってゆくその筆跡は普遍的である。
第1楽章は作品57で閉じたはずの高度で技術的な攻撃性と荒々しさが太い筆致を残す。
ペンよりも先に頭で鳴っている音楽が突っ走りながらも、短いコーダには滲むように第2楽章を予感させてゆくあたりは、怜悧な設計を感じさせる。
どこに向かって収斂させるべきか、ハ短調からハ長調への道筋に明確さが見える。
第1楽章はこれに続く主題と5つの変奏が最も映える形で消えるように閉じる。
第2楽章は第1楽章で描いたコーダの残像が耳に残る間に滲むような波紋の中から揺れるように歌われて立ち上がる。
変奏の中にこれほどの深い内省が覗ける音楽はあまりない。
主題と変奏のバランスや技術的な処理などというものではない。
煤はもう燃え尽きた煤ではなく、膠で練固められた表現のための精神的な塊である。
そこから『フランツくん君はここにいるよ』とでも言っているような、つぶやくような厳しい叙情があったりする。
そして、何度聴いてもその歌の無比な高さの中に転調されて弾ける即興性を感じさせてやまない間奏。
短いがここだけ取り出せば、それは伝統音楽の中に不意に降りてきたラグタイムのようであり、驚くほど近くにジャズのイデオムが聴き取れないか。
ピアノ・ソナタという楷書から引き出された2楽章の行書。
煤と膠はそこに加えられた香気によって深い墨痕を心に残す。
様々に語られるベートーヴェンの姿はボクの中ではどうしても彼の後期の作品と結びつかない。
何度も繰り返して聴くほどに、ベートーヴェンという名はボクの耳から抜け落ちてゆく。
他にどんな聴き方をすればいいのだろう。
ふと気が付くと、もうこの作品を聴くような季節になったのだなあと思った。
様々な演奏があるけれど、現代の方から遡る演奏。少し墨が薄いけれどね。第2楽章を
ブラームスもそろそろいいかなあと…思ったりする。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集[4] 第21番《ワルトシュタイン》/第27番/第32番
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2014/11/26
- メディア: CD
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集 Vol.7(第30~32番)(紙ジャケット仕様)
- アーティスト: グールド(グレン),ベートーヴェン
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
- 発売日: 2007/09/19
- メディア: CD
ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
- アーティスト: グルダ(フリードリヒ),ベートーヴェン,シューマン
- 出版社/メーカー: マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
- 発売日: 1999/02/17
- メディア: CD
>驚くほど近くにジャズのイデオムが聴き取れないか。
私も、強く感じます。
この第二楽章を初めて聴いたときの驚きは、いまも忘れません。
あまりの意外な展開に面くらい、
そして、すぐにそのリズムの渦に巻き込まれました。
作られてからの200年近くの時の隔たりの両端が、
まるでスタートレックのワープ画面のような
不思議な歪みと加速度を伴って目の前に広がる、
そんな感慨を覚えます。
Marijan Đuzelというピアニストの演奏は初めて聴きました。
大きな川の流れを見るようなゆったりとして落ち着いた印象を持ちました。
ブラームスもそろそろいいですね、、、
by e-g-g (2014-12-22 22:43)