浅い夜夢 [音楽]
エネスク/フォーレへのオマージュ 1994
とても短い夢。
夜想曲と題されたわけではないけれど、晩年を迎え、作風の角が取れ、研かれたリリシズムが作品を浅い夜の色に染める。
音の言葉は少ないけれど、1音1音のニュアンスをギリギリまで軽く扱いながら夜の濃紺の中に薄く伸ばしてゆく。
刷毛の趨る方向に仄白い無数の感情の襞の残像がゆっくりとたち顕れて滲みながら消えてゆく。
ピアニストという職業人は魔法の指を持っている。
意思的な衣装を纏わず、恩師の作品にあった簡潔と1音が醸す抒情の長さに寄り添うように創り上げた。
選んだ音と空気感は異なるけれど、
持っている抒情に共通点はないけれど、
作曲者は師に思いを馳せている。
回顧的な作品ではあるけれど決してその時代の夜想を描いてはいない。
フォーレの足跡を踏まないように用心深く20世紀の浅い夜に響いてゆく。
ガブリエル・フォーレ/夜想曲第13番ロ短調 op/119
フォーレの夜想曲の到達点。
セピア色に燻された音の詩である。
ホロヴィッツの演奏はちょっと凄すぎるけど、ストイックなほどに一色に塗りこめられている。
2番目の1番 [音楽]
ブルックナー/交響曲第1番ハ短調 (1865-1866)
第1楽章 アレグロ
第2楽章 アダージオ
第3楽章 スケルツォ: シネル(急速に)
第4楽章 フィナーレ: ベヴェークト・フォイリヒ(快速に.火のように)
もう、とっくに記事にしてると思ってたけど、してない気もする。
最近ちょっとよその県に行く機会があって、その行き帰りにNightWishと交互に聴いていた。
7時間くらいぶっ通しで高速を運転していたので疾走感がある曲と山の中を抜けるときに聴くこの曲が楽しかった。
彼は自分の作品にあまり自信を持っている人ではなくて、生前から作品の批判に対しては敏感で、そのせいで自分自身や他人やらで何度も作り直している。
この作品にも版がいくつかある。
そういう版毎の違いを聞き分けて楽しむ方法もあるだろうけれど、ジジイは音楽が淀みなく流れ、この作曲家の特徴である響きの自然な交響があればそれでいい。
彼の自信のなさは、基本的な音楽的知識が(例えば対位法であるとか、主題の扱いであるとか)欠けたところから自由に音楽を想像していたところにあるのかも知れない。
決まり事の中で音楽を想像して行く技量はあったのだろうけれど、それをさほど気にしないおおらかさが、音楽界の厳格性に触れて萎縮したように感じる。
彼にはもう一つ恐かったことがある。
第9番を書いてしまうと死ぬという何人かの作曲家に訪れた結果をジンクスとして怖れ、第1番を書いた後に0番を書いて自分の天命に抗おうとした。
成功しなかったけどね。
それでも、できあがった音楽を素人のスタンスで聴くのは楽しい。
第1楽章はバスの行進曲風の多少ぎこちないリズムにホルンの遠近感のある合いの手が入る。これが第1主題になる。
旋律が明確に詠われ、その変化の道筋を予感させる主題作成ではない。
響きに仕事をさせる。
この辺が『すばらしい!…でも、主題は何処だね?』とか当時揶揄された由縁だろうけど、現代の耳と柔軟さ(物怖じしない知識不足)があれば、ブルックナーはすぐ隣に座って微笑んでくれる。
旋律が一本の糸を通すのではなく、自然の中の響きが持ち寄ってふわりとした交響の空間を作る。
ワグナーのタンホイザーのテューバとヴァイオリンが聞こえ何度かのアチェレランドとリタルダンドをくり返しながら情熱を込めて閉じる。
彼の音楽を支えている骨組みが楽譜ではなく、黒い森の木々に反射する自然の音達であるかのように響き拡散し、集って流れる。
第2楽章は、ここで古い演奏だけれどヨッフムがベルリンフィルを振ったときの演奏を前半だけ紹介する。
低く、くすんだ弦楽から導かれる抒情的な音の流れは、やはり一本の線を修飾してゆくものではなく、それぞれ抒情性を含んだ音達がヴァイオリンやホルンを通して重なり集う。
ファゴットが珍しくブルックナーの歌を聴かせる。
それはこの曲で唯一音響から旋律が醸造され、美しく駆け抜ける数瞬である。
この楽章はブルックナーの抒情に関する感覚とシンフォニストとしての音の扱いが他の作曲家と際立って異なることが惻々と伝わってくる。
静かな旋律が流れ、メロディアスな歌が形作って行くアダージオではない。
高い音も低い音もそれぞれ目一杯鳴ることによって形作られる静けさを持つ。
文字で表現するとそんな矛盾を隠せないアダージオ。
第3楽章のスケルツォは、大好きです。衝動的にステップが踏まれる舞踏。
金管は細かく切れ切れに音楽を寸断するけれど、人が持つリズムの根源を閉ざすものではない。
原始的だけれど何処かに舞踏が終わった後の生身の温もりを伝える。
第4楽章は火のように始まる。
面倒くさい決まり事は全部はじめに済ませるっていう気概で第1主題が投げ出され、ぁ、ぁ、と思っているといつのまにやら第1ヴァイオリンとチェロが第2主題を、あややと思う前にコラール風の第3主題。それぞれに第1主題が噴き上がり、まるで何かの序曲のフィナーレのように激烈に鼓舞され、響きは広い入り口から狭い出口に向かってレミングの遁走を初め、コーダは膨張した頂点で破裂する。
ま、この頃はまだ元気だねこのおじさん。
何度聴いてもこの人の音楽はその時の有り様のまま心に届く。
かつて聴いたときの場所に戻るのではなく。
全曲通してお聞きとはいいにくいけど、この演奏。なかなかでした。
Blogの中の猫たち-175 [Blogの中の猫]
しとろんの『お取寄せ』のーと
miel-et-citron さんちのミエルさん
デッサンしてから仕上げずにほかの仕事に忙殺されていたりするといつの間にやら件のネコさんの飼い主さんのブログが
引っ越してしまったり、更新を休んでいたりする。
それでも、こんなネコさんがいましたと僕なりにご紹介ができればと折角描きかけた画像は何とか仕上げています。
このブログはどうなのかなあ。
お休みしているだけだといいけれど。
このミエルさん。立耳のスコさんらしい。琥珀色のアーモンド・アイがなかなか難物です。
難しい色だねえ。なかなか生きない。ちょっと濃すぎると剥製のはめ込みのように見える。
『明日になったらうまく行くかもしれない』と趣味的な気楽さからうっちゃっておくと時がたち、慌てることになる。
この辺は写真のリアリティには歯が立たない。
でも、コレは最近思うのだけれど、古生物を描くについても、コレだけデジタル技術が進歩し、ボクの画像でも3Dで動かすことができるらしい。
一人の手で生み出す2Dのハンドドローイメージはもう役割が終わったのかなと思ったこともあるけれど、子供たちはそうは思ってないらしい。
絵の持つ近しいリアリティと3Dの精密なリアリティの間の距離感を彼らはボクたち大人より相当正確に区別している。
デジタルで生き生きと動く古生物の躍動を見るときの直接的な感覚と、ハンドドローの画像を捉える雰囲気を掴む感覚。
彼らの目は好奇と想像に満ちていてめまぐるしく変転する。
ボクがブログ猫を描く上で最も気を使っているところは抽象化しないこと。
描いたネコの出所がその飼い主にわかること。
個性の発露です。
そこは写真の世界ときわめて近接しているけれど、きわどいところで省略と要約を発揮しつつ提示できる世界だと思っています。
理屈っぽいなあ年取ると。
音楽は理屈抜きで。
伝説的ステージ
ターヤ・トールネンが去った後のこのグループの音楽はほとんど聴かなくなった。
これ以後のナイトウィッシュはボクにとってあまりにも単調な単なるゴシックロックになってしまった。
彼女の歌声のパワーと醸し出すクラシックな翳りは失われた。
久しぶりで聞いたけど、年甲斐もなく、まだいける。
何度目かのロック版 ”Phantom of the Opera”
作曲はSir.S.ロイド.ウェッバー。この怪異なオペラは作曲者自身と妻の私的な物語の投影であるといわれている。
そういう聴き方をするには劇場版の正統派の美しいハーモニーよりも情念の持つエネルギーを感じるこのバージョンがよりふさわしいように感じてしまう。
序奏の美 [音楽]
シューマン/交響曲第2番ハ長調op.61
第1楽章 ソステヌート アッサイ-アレグロ マ ノン トロッポ
第2楽章 スケルツォ:アレグロ ヴィヴァーチェ
第3楽章アダージオ エスプレッシーヴォ
第4楽章アレグロ モルト ヴィヴァーチェ
序奏部のトランペットの柔らかな音色にふわりと降り注ぐ弦楽の旋律が対位する美しさは何度聴いてもよろしいね。
トランペットをまず聴く。
そしてその中にもう一つの音楽が啓示的に流れる美しさを聴く。
それだけでもいいやね。
「ハ長調のトランペットが頭に響いている」1845年9月に盟友メンデルスゾーンに書き送った手紙はこの部分を指しているのかな。
序奏部で育った動機の反復が第1主題の形をなし、それは様々に変幻し闘争的になり、厚みを増して意思的になり、あるいは滑らかに滑り降りる。
第1番の雰囲気を引きずっているけれど、シンフォニーの中心がオ-ケストラノ中央に重なるとき、忘れかけていたシューマンの音楽がぴったりと耳についてくる。
第2楽章のスケルツォはシューマン独特の同じ音形のくり返しが多く、弦楽器が近代的だと乾きすぎて押しつけがましくなる。
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の古雅な音色はローカリティが残っていながら洗練を纏いこの音楽を穏やかな微笑みの中でひろげてみせる。
ボクは以前セルやクルト・マズアの演奏を聴いていたのだけれど、こういうのもいいなあ。
第3楽章はハ短調のロンド形式。
主部のヴァイオリンのメンデルスゾーンでも書きそうな愁いの歌が美しい。
この楽章だけカラヤンがベルリンフィルを振ったときの演奏をYouTubeで聴いた。
めちゃめちゃ奇麗なのです。
こういう方向もやっぱり残って行くべきなのですねえ。
唯美的だけど、美しさはダントツですね。
シューマンがどっかへいってしまい、音楽の持つ魔味が蜘蛛の糸のように絡みついてくる。
でも、ボクはきっと飽きてしまうだろうなあ。
カラヤンでボクが今でも鳥肌が立つのはシェーンベルクの『浄夜』です。アレは凄い。
てなわけで、もう一度パーヴォ・イェルヴィの振ったドレスデンSKに戻った。
第4楽章 一部と二部に別れているかのような長大ななコーダを持つ。
メンデルスゾーンのイタリア交響曲の冒頭を思い出す。
展開部を見つけられないソナタ形式から始まる。長大なコーダ部分は変幻し、第3楽章の歌を拾い出しながら壮大なフィナーレがティンパニの連打で結ばれる。
演奏はいくつもいいのがあったのだけれど、第1楽章序奏部と第3楽章に古雅な音色が曰く言い難いドレスデンの音を
全曲掲載なので第3楽章は19:21位から始まる。
ライブレコーディングです。
Schumann: Symphony No. 2 & Overtures
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Sony Import
- 発売日: 2012/12/11
- メディア: CD
Symphony No. 2/Overtures 'genoveva' & 'manfred'
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Deutsche Grammophon
- 発売日: 2013/06/06
- メディア: CD
黴の匂いの中から [音楽]
ロベルト・フォルクマン/チェロ協奏曲イ短調op.33
第1楽章 アレグロ モデラート
第2楽章 アレグロ ヴィヴァーチェ
第3楽章 アレグロ ヴィヴァーチェ
第4楽章 ウン・ポコ モデラート
連休も終わった。
いくつか書きたい日常もあるけれど、決算期の今はちょっと疲れてて集中力がない。
4月から5月にかけて公私共にさまざまな出来事があってようやく落ち着いてきた。
今日はやっと取れた休日。
とりあえず、気分を変えて音楽です。
数年も日を浴びず空気の止まった中に眠っていた音達が冒頭の旋律の中に立ち上がる。
チェロの響きの何処かなつかしい低音には弓が低弦に触れるたびに光の中に微少の埃を舞い上げる。
コンパクトで彼以後の異国の作曲家が目指したようなスケールを追いかけた音楽ではないけれど、目を覚ました音は整然としていて魅力的である。
ヴィルトゥオーソのために書かれたようで技量を聴かせる部分が多い。
音楽の繋がりはチェロを中心に管弦楽は添え物のようなヴァイオリンで言うとパガニーニのそれのような部分が多く、
正直あまり好みではなかったけれど、チェロの独奏に数瞬合わせる管弦楽の旋律は美しく、錬られている。
この第1楽章にこの管弦楽の序奏があれば聴く方の集中は『20%がとこ違うのになあ』と思ったりする。
同じロベルトであるシューマンのチェロ協奏とイメージが似ていなくはない。
全楽章は続けて演奏される。
演奏者によって17分から19分強まで、いくつかの録音があるけれど、YouTubeではそのうちの2曲が聴ける。
ボクはどちらかというと遅い方がうまくいっているように感じるね。
引き飛ばさず、オケとの感覚をよく打ち合わせた上でバランスに重点を置きつつチェロはよく歌っている。
このダニエル・ミュラー(腕時計ではない)・ショットというチェリストはイケメン君でヨアヒム・ラフなんかのチェロ協奏曲も弾いていた。
当時は長髪を後ろで括っていて白面の美男だったけど、何年かの年を経て顔つきにも影が差して深みが出てきた。
演奏も比例しているね。
技術的には圧倒するものを持ちながら非常に知的にコントロールしている。
オケとチェロ間合いの中の息づかいが絶妙でこういう気の使い方をすると音楽は自分で誇りを落として輝き始める。
第2楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェの独奏部は無伴奏の深さすら感じさせる。
1727年製のマッテオ・ゴフリラーの細身で反応のよい音は彼の知性を乗せるのに最適の楽器なんだろうね。
演奏は気に入った。
フォルクマンの作品も例によって室内楽から聴き始めた。
弦楽四重奏曲に流れるベートーヴェンとシューベルトの特異な混交はここには聴けない。
ボクはもう一度室内楽に戻っていこう。
- アーティスト: シューマン,R. シュトラウス,フォルクマン,ブルッフ,クリストフ・エッシェンバッハ,北ドイツ放送交響楽団,ダニエル・ミュラー=ショット (Vc)
- 出版社/メーカー: ORFEO
- 発売日: 2009/12/25
- メディア: CD
- アーティスト: Albert Dietrich,Friedrich Gernsheim,Robert Schumann,Robert Volkmann,Hannu Lintu,Berlin Radio Symphony Orchestra
- 出版社/メーカー: Hyperion UK
- 発売日: 2007/03/20
- メディア: CD
Most Beautiful Cello Concertos
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Hanssler Classics
- 発売日: 2010/04/27
- メディア: CD
Blogの中の猫たち-174 [Blogの中の猫]
Raccoon's weblog
Raccoon さんちのD.D『ネコ1号』
ほんとの名前がそうなのかわからなかったけれど、前からずっと気になっていて
僕はRaccoon さんのブログをお気に入りに入れていた。
最後にブックマークに残っていた日付が1月23日だった。
『ネコ1号』を描き上げてから、ふとアクセスしたタイトルのすぐしたの欄に2月28日のリンクがあり、何気に開くと
そこに1月に亡くなった『ネコ1号』の記事があった。
多分男の子であったと思う。
kontentenさんちの『カナ姉』のような例もあるけど、『ネコ1号』のかもす雰囲気には『カナ姉』にも共通する生命力が発露している威圧感があった。
ジジイが描いた彼?の画像は決して怒っているのではない。
表情に融通性があまり無く、どこかニヒリスティックな面持ちがあるが、猫歳を経た独特の押し出しがあった。
それはすでに写真からも十分伝わるもので、敢えて描くことに僕自身のこだわり以外目標は無かった。
どこまで削ったらこの写真から伝わる彼の印象が変わってしまうのか。
いろいろやったけれど、結局かけた時間ほどの成果は得ることができなかった。
まあ、それは描き手の自己満足で『…らしく見える』のであればいいとしなければならないのかなと、思い直してブログにのせた。
写真では写りこんだ『ネコ1号』の周りのものが彼の雰囲気に染まっている。
ボクの画ではそこまで届かない。
取り出したエッセンスを再現する画法ではなく、組み立てなおす画法(抽象性に置き換える)なら、もっと直感的に『ネコ1号』に寄り添えるのかとも思う。
それをするような時間は無いけれど、眉間のしわに苦味と愛嬌を同時にかもし出す彼の印象はずっとボクの目の裏に残り続ける。
合掌
音楽はエネスクの弦楽のための八重奏曲 ハ長調Op.7から第3楽章レンタメンテ。
まだ古典的ロマン派から足を抜いていない作品。
だけど、その非凡は叙情の捉え方の洗練、弦楽を知り尽くした微妙なアンサンブルの中の息遣い。
他の音を聞く中で自分の音の流れがどこで浮き上がってゆくのかそれぞれが固まった合奏の旋律ではなく、個々の歌の流れに入り込んでくる隣の奏者の息遣いを知ってこその演奏。
この20世紀の作曲家はボクにとってシューマンやシューベルト、バルトークに匹敵している。
豊かではないが祈りがこもった演奏を。