2番目の1番 [音楽]
ブルックナー/交響曲第1番ハ短調 (1865-1866)
第1楽章 アレグロ
第2楽章 アダージオ
第3楽章 スケルツォ: シネル(急速に)
第4楽章 フィナーレ: ベヴェークト・フォイリヒ(快速に.火のように)
もう、とっくに記事にしてると思ってたけど、してない気もする。
最近ちょっとよその県に行く機会があって、その行き帰りにNightWishと交互に聴いていた。
7時間くらいぶっ通しで高速を運転していたので疾走感がある曲と山の中を抜けるときに聴くこの曲が楽しかった。
彼は自分の作品にあまり自信を持っている人ではなくて、生前から作品の批判に対しては敏感で、そのせいで自分自身や他人やらで何度も作り直している。
この作品にも版がいくつかある。
そういう版毎の違いを聞き分けて楽しむ方法もあるだろうけれど、ジジイは音楽が淀みなく流れ、この作曲家の特徴である響きの自然な交響があればそれでいい。
彼の自信のなさは、基本的な音楽的知識が(例えば対位法であるとか、主題の扱いであるとか)欠けたところから自由に音楽を想像していたところにあるのかも知れない。
決まり事の中で音楽を想像して行く技量はあったのだろうけれど、それをさほど気にしないおおらかさが、音楽界の厳格性に触れて萎縮したように感じる。
彼にはもう一つ恐かったことがある。
第9番を書いてしまうと死ぬという何人かの作曲家に訪れた結果をジンクスとして怖れ、第1番を書いた後に0番を書いて自分の天命に抗おうとした。
成功しなかったけどね。
それでも、できあがった音楽を素人のスタンスで聴くのは楽しい。
第1楽章はバスの行進曲風の多少ぎこちないリズムにホルンの遠近感のある合いの手が入る。これが第1主題になる。
旋律が明確に詠われ、その変化の道筋を予感させる主題作成ではない。
響きに仕事をさせる。
この辺が『すばらしい!…でも、主題は何処だね?』とか当時揶揄された由縁だろうけど、現代の耳と柔軟さ(物怖じしない知識不足)があれば、ブルックナーはすぐ隣に座って微笑んでくれる。
旋律が一本の糸を通すのではなく、自然の中の響きが持ち寄ってふわりとした交響の空間を作る。
ワグナーのタンホイザーのテューバとヴァイオリンが聞こえ何度かのアチェレランドとリタルダンドをくり返しながら情熱を込めて閉じる。
彼の音楽を支えている骨組みが楽譜ではなく、黒い森の木々に反射する自然の音達であるかのように響き拡散し、集って流れる。
第2楽章は、ここで古い演奏だけれどヨッフムがベルリンフィルを振ったときの演奏を前半だけ紹介する。
低く、くすんだ弦楽から導かれる抒情的な音の流れは、やはり一本の線を修飾してゆくものではなく、それぞれ抒情性を含んだ音達がヴァイオリンやホルンを通して重なり集う。
ファゴットが珍しくブルックナーの歌を聴かせる。
それはこの曲で唯一音響から旋律が醸造され、美しく駆け抜ける数瞬である。
この楽章はブルックナーの抒情に関する感覚とシンフォニストとしての音の扱いが他の作曲家と際立って異なることが惻々と伝わってくる。
静かな旋律が流れ、メロディアスな歌が形作って行くアダージオではない。
高い音も低い音もそれぞれ目一杯鳴ることによって形作られる静けさを持つ。
文字で表現するとそんな矛盾を隠せないアダージオ。
第3楽章のスケルツォは、大好きです。衝動的にステップが踏まれる舞踏。
金管は細かく切れ切れに音楽を寸断するけれど、人が持つリズムの根源を閉ざすものではない。
原始的だけれど何処かに舞踏が終わった後の生身の温もりを伝える。
第4楽章は火のように始まる。
面倒くさい決まり事は全部はじめに済ませるっていう気概で第1主題が投げ出され、ぁ、ぁ、と思っているといつのまにやら第1ヴァイオリンとチェロが第2主題を、あややと思う前にコラール風の第3主題。それぞれに第1主題が噴き上がり、まるで何かの序曲のフィナーレのように激烈に鼓舞され、響きは広い入り口から狭い出口に向かってレミングの遁走を初め、コーダは膨張した頂点で破裂する。
ま、この頃はまだ元気だねこのおじさん。
何度聴いてもこの人の音楽はその時の有り様のまま心に届く。
かつて聴いたときの場所に戻るのではなく。
全曲通してお聞きとはいいにくいけど、この演奏。なかなかでした。