二つの巨人
グスタフ・マーラー/交響曲第1番ニ長調『巨人』
ジャン・パウル 原著作『巨人』
音楽のサイドから記事にするとすればマーラーは啓示を受けたその散文詩[巨人]の作品のほんの一部のイメージでしかない。
交響曲第1番は最初、交響詩としてスタートした。
それは作品にその原形とも言える想像の根源に近い文学があったからだろうが、絶対音楽に進んだマーラーは結局『Titan』という標題を外し、交響曲第1番としてシンフォニストのキャリアのスタートを切った。
お茶の水の駅の坂道にあった喫茶店の少し坂上に渓名堂とかいう本屋があって、狭かったその本屋の柱の角の本棚にプルーストと並んであったジャン・パウルの分厚い本はちょっと立ち読みするには重すぎ、フランス語がダメなボクのよれよれの英文の知識では、いかようにもできない壁だった。
当時出ていた翻訳版は3巻かそこらあったと記憶している。
翻訳版は現代新潮社から出ていた。
そのシリーズだけだったのではないか。
だからその交響的小説とも表現される、言葉の色彩と至深の大著を読んでから聴けなどというつもりはさらさらない。
大体この大著の翻訳版は今の一冊になってからは9000円以上しているんだから、マーラーの交響曲第1番のCDが3,4枚は買えてしまう。
というわけで、ジャン・パウルのサイドからマーラーを聴いてみようかという野望は呆気なく崩れたね。
今の若者はよほどそっちの道で飯を食うと決めていなければマルローやプルーストやパウルに手を出そうと思うことはないでしょう。
残念ながらボクら団塊の世代よりもさらに遊びの種類は少なくなり、世に出なければ生きて行けない心と肉体と現実とのギャップは遙かに大きくなっている。
時間の流れが圧倒的に速いのだ。
自由な成長をしていたのでは間に合わない。だから彼らは文学を映像化し、紙を電子化したものに変えてせわしなく頭に詰め込む。
自分の感性で理解したものか、他人の感性を介して理解したものか、彼らの本には自分で付けた折り目や栞がない。
マーラーの話だった。
この第1番のことを今まで書かなかったのはこの作品からつながって行く自分のルーツみたいなものとボクの子供達の住んで行く世界のギャップがどうにも切なくなってくるからだった。
それでも、久しぶりに聴いてみた。
第1楽章:緩やかに・重々しく
第2楽章:力強く運動して
第3楽章:緩慢にならず、荘重な威厳を持って
第4楽章:嵐のように激動して
交響詩的な第1楽章と第2楽章の明るさから一転する第3楽章は昔から好きというのではないけれど、誰の心の中にもある何か捨ててはいけない重いものを引きずりながらシジホスの山を頂上に向かって登って行くような終わりのない人間くさい部分がいつも新鮮だ。
その後の金管の不気味に透明なワルツの死をイメージする舞踏。
病的な厭世の芽生えというよりももっと普遍的な忘れてはいけない重たい『義務』みたいなものを引きずって行く。様々な歌謡風の旋律が明滅し、世俗的なメロディに陥るのをかろうじて踏みとどまっている。
このテーマは黒澤明が欲自分の映画で使った。
そしてその延長線上にある嵐のような第4楽章の幕開け。全てを否定し押し流す音響の奔流。
その最中にさえ、マーラーは歌っている。遠ざかってゆく巨人の足音のような打楽器の深い二歩の、打楽器の後、英雄的なパトスが抑制を忘れたかのように広く輝きを持って全ての吹奏する嵐の中の静けさを挟み、美しい中間部の旋律はより自然のたおやかさをみせ、塞栓が破裂する前の血管のような緊張へと続くかに聞こえながら緊張はゆっくりと頭をもたげたパトスに再び席を譲る。
マーラーの以後の巨大な表現主義的モニュメント達の幕が開く。
クラウス・テンシュテット指揮L.P.O.で聴きました。
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