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完璧な演奏 [音楽]

完璧な演奏って何だろう?
クラッシックの場合物故した作曲家に直接会い、一音符の表現まで話し合うことができ、それを作曲家のイメージ通りに弾きこなす技術があって、さらにそのイメージを深化させることができる音楽性が発揮された時、作曲家が一言「完璧だ!」というとすれば、そういう演奏なんだろうね。
でも残念ながら僕らの時代は楽譜に記された音符から作曲者の意図を音にしてゆく時代だ。
技術を磨くために作られたピアノ楽曲は数多い。リストの超絶技巧練習曲をはじめ、エチュードと名付けられる楽曲はたくさんある。
まず、凡百のピアノ愛好家は譜面通りに弾けない。
プロフェッショナルである演奏家だけがその譜面に記された音符の地平に立っている。
しかし、きら星のごとくいる古今のピアニストの中で、ショパンの24曲のエチュードを均一のクオリティで、練習曲が持つ可能性と、書き手であるショパンその人の個性から立ち上る隠しようもない詩情を、現代のグランドピアノの頂点を鳴らせ切った状態で作品そのものから浮かび上がらせる。
そんな演奏。
どの演奏家も妥協などはしていないはずです。
どの演奏家も、自己表現を何処かで込めつつ作品に投影しようとしているかも知れません。
でも!ショパンの24曲のエチュードは、これ以前にこれを越えるものはありませんでしたし、これ以後の優れた録音技術の中で発揮された優れた天才達にもこの演奏を超えたと思えるものは皆無です。
サロン風の優しさとメランコリックなイメージの中にあるショパンはこの楽譜にはないのです。
なかったのです。
練習曲は高度な技術のために作られた楽曲です。
即物的であることが美しいのです。
でも、そこに、そこはかとない詩情と、哀しみを聴いてしまうのは、曲自体に初めからあったショパンの個性そのものなのではないでしょうか。
作品10の第1曲目のハ長調から、この演奏を聴いた時、そのアポロ的な光彩と、大理石のような硬さ、そして鋼のような弾力、凄まじいばかりの推進力が生むエネルギーが、ふっと引いた時に、その下に隠れていたカンタービレの美しさ。
作品25の第12曲目の大洋まで、全てが鳴りきっていて、音符はその全ての役目を終えています。
古くはアルフレット・コルトー、ショパンの洒脱を見事に引き込み同化させる洒落た演奏を聴かせるサンソン・フランソワ、パッションと閃きの天才女流マルタ・アルゲリッチの感性、将来を感じさせるブーニン彼や彼女らが様々なショパンで見せる演奏には抜きがたい個性と説得力に満ちボクを惹きつけて止まないものがあります。
でも、このエチュードに関して、これ以上のものは不要でしょう。
完璧な、ショパンのエチュードです。
そして、このエチュードをこれ以上にブリリアントに弾ききることは音符を裏切る以外にはないでしょう。
完璧に弾くことはもうこれ以上は不要です。

「全集?意味がないわ。あの人がやったから。」マルタ・アルゲリッチ


 ショパン:練習曲集(全曲)

  • アーティスト: ポリーニ(マウリツィオ), ショパン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2007/11/21
  • メディア: CD






 


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