マーラーという映画 [映画-音楽]
ケン・ラッセルという監督は正直あまり好きではない。
比喩が多すぎ通俗的で、象徴するものが俗物的だ。ヴィスコンティのパロディなんか何の意味もない。
でも、多かれ少なかれ、音楽家を描いた映画はこんな風になるものが多い。
一部例外はあるけれど。マーラーの音楽には長大にならなければならなかった理由が何処かにあって、屈折と憂鬱が支配する20世紀のデカダンスの匂いを本能的にかぎ取っていたところがある。
旅をすればするほどヨーロッパにはその空気が溢れ、清新なアメリカのような所では彼の神経は長く耐えられない。
「やがて私の時代が来る」
その言葉は彼の音楽が理解されることを指しているかに見えるが、彼と同じように倦み、悶える文化の時代が彼の苦しみと同化してゆく、終末の世紀の訪れを期待しているかのようにも聞こえる。
ケン・ラッセルが挿入するマーラーの交響曲の多くの断片は、様々な曲からとられてはいるが、全てが同じ憂いの方向を向いていて変化がない。
美しい自然が人為的に映像で見せられている。
マーラーの音楽にある自然に対する不自然さが映像自体に象徴されている。
ブルックナーというこれは全く映画なんかになりにくい作曲家だけれど、彼の音楽も同じように長いけれど、聞こえてくる音の中には常に自然があって、彼はその恩恵を十分に受けた音楽をボク達に残した。
マーラーはモーツアルトが極めて短いフレーズで書ききったことを長大な音楽にしなければ語れなかった。
ブルックナーと違って人工的な音の学問を感じさせる。
ただ一点、ロバート・パウエルの眼鏡をかけた横顔が、マーラー自身に見えるほど見事に似ている。
列車の中の夫婦の椅子の距離が示すわかりやすい愛情の剥離の中で、深く刻まれた眉間に光りと影が交差する。
それだけで人物の複雑さが描かれているのだから、それ以上の説明は要らないのに、ケン・ラッセルはやっぱりちょっとやりすぎだね。
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