ブラームスの第3番 [音楽]
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ-ウン・ポコ・ソシテヌート-テンポ1
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 ポコ・アレグレット
第4楽章 アレグロ・ウン・ポコ・ソステヌート
スケールが大きいわけではなく、とりわけ曲想に斬新さがあるわけではない。
しかし、この交響曲はブラームス以外作りようのない楽想に充ちている。
ドヴォルザークの様な息の長いメロディーを聴かせることがないブラームスが久々に頑張った第3楽章は、知らない人がない名曲。
第3番については映画音楽としての絡みで二度ほど取り上げた。ある人は女性的な曲だという。
でもボクはこの曲の第3楽章も好きだけれど、一番好きなのは第4楽章。
劇的なんだけど、スケールを重視していないので、コンパクトではあるけれど、ブラームス特有のたたみかける弦楽の重畳的な響きがヒロイックであり、ドラマティックである。
メロディ・ラインで勝負せず、自身の最も強い音列の美しさで勝負を懸けたようだ。
フィナーレを「さあいよいよ終わるぞ」という気分ではなく、
「もっと聴いていたい」という気にさせてくれるシンフォニーは珍しい。
一片の塵もなく整頓された音楽が近代的な響きの中で見事に再現されている。
あのシェーンベルクの『浄夜』で鳥肌が立つほどに感動した弦楽の血が噴き出しそうなトレモロはここにはなく、冷めた美しさがひんやりとした大理石の感触を伝える。
それがブラームスにふさわしいかといえば首をかしげざるを得ないけれど、カラヤンはぶれない。
唯美的といわれるけれど、たしかにそれは間違ってはいないと思うけれど、それもまた一面の音楽的表現だと思う。
あとはそれを好むか好まないかだろう。
案外できるだけ長く色褪せない音楽を残すのだとしたら、カラヤンの音楽は客観性を持ち続けるのかも知れない。
でも、それが何になるのだろう。
ボクには遥か遠くから響くウィンナホルンの円かで柔らかな響きが、弦楽との前後の距離を作り、酒仙指揮者のおおらかな棒に合わせて楽しげに音を合わせているVPOの、まだ今も人肌のぬくもりのある演奏を好む。
ゲネプロで指揮台の手すりに寄りかかって、頷きながらそれだけで調子を取りながら左手を舞わせ、右手をズボンの後ろポケットに入れ、ウィスキーの入った銀製のボトルを取り出し、ちょいと引っかけながら顎と目で管楽の出を揃えた。
いつかビデオで観たジョン・バルビローリのセーター姿の指揮ぶりだった。
音楽は自主性に溢れ、あの気むずかしいウィーンフィルのメンバーを音楽の楽しさに中に誘う。
それは聴いている者を巻き込んで全てが有機的につながって行く。
それは時代の持つ空気であり、音楽自体とはまた違う主観的な芸術のありようだ。
例え、百年続かなくても、音楽に客観性よりは主観性をボクは観て行きたい。
いや、聴いて行きたいと言うべきか。
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