帰る場所 [音楽]
モーツァルト/ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調 K.280
第1楽章 アレグロ アッサイ
第2楽章 アダージオ
第3楽章 プレスト
夜明け前に一仕事して、さる博物館のプレート用の画像を仕上げ、FFFTPで仲介者のサーバーにアップロード。手許に画像を残さない売り切り。最近珍しい。
久しぶりの休みに、もう少ししてから寝直そうと思いつつ夜が明けた。
ために貯めた衝動買いのCDを聴きながら何か描こうと思ったが、ぼーっと音楽を耳に入れながら机に脚を載っけたままうたた寝していたらしく、CDプレーヤーのリモコンが手から滑り落ちる音でビクンと目が覚めた。
棚から取りだしてCDを入れ替える。
結局モーツァルト。
久しぶりにヘ長調のソナタを聴いた。K280。
モーツァルトのクラビーアソナタとしては第2番。跳ねるようなリズムと短い楽想の袖から裾に鏤められるギャラントな装飾。
目の奧が冷たい水で洗われたように覚醒した。
多分こういう着想はシンプルな旋律線が決まっていて後はほとんどその場の即興で様々な装飾がされたのだと思う。
現代の演奏家が同じことをやれば「遊びすぎだ」とか評されるだろうね。
水戸黄門のテーマ(「人生楽ありゃ」ってやつ)でドングリコロコロが歌えるように、詩が付いている音楽ならいろんな嵌り様があるだろうけど、ピアノの点線に施される飾りはどんなに綺麗なビーズを通しても、元の針金から離れることは出来ない。
それが出来るのは作曲家を兼ねる本家だけだ。
その変幻自在の本家の気分にぴたりと寄り添うことは至難に近い。
だから最大公約数の自筆譜に演奏家は嵌って行く。
でも、そうはならない演奏家もいるね。
例えば
ビースの並びを変えずに針金を曲げることが出来るグールド。
原曲者と同じく、一度として同じ演奏をしないグルダ。
まるで自分が作った曲であるかのように振る舞う。
鍵盤楽器がピアノフォルテの登場でその可能性を広げ始めた頃。チェンバロの薄く軽快な鍵盤の戻りが生む様々な微細に鏤められる装飾。
ダイナミズムがチェンバロを超える硬質な音階に曝される一瞬。
第2楽章のアダージオの縦に深い表現の幅はバッハのフルートソナタか何かで聞いたような古風な響きを交えながら新しい光に満ちている。
感じ方によって様々だろうけれど、経験によって出来る約束された音の流れではない。
彼の音楽を生む脳髄のどこかが天と繋がっている。
その余韻の醒めぬ間に始まるプレストのぴりぴりするような新鮮。
グルダで聴きたい。
こちらこそ ご訪問&コメントありがとうございます^^
by alba0101 (2012-01-13 11:09)
まったくの無知ですが、いつも読ませて頂いて、曲も拝聴させていただいてます。
8分かぁ、ちょっと長いな、って思ったけれど、
ここちよく8分過ぎてしまいました。
いつもありがとうございます^^
by nana_hyr (2012-01-13 15:50)