ブルックナーの第9 [音楽]
ブルックナーの第9
アントン・ブルックナー/交響曲第9番ニ短調(未完成)
この作品はそもそも第4楽章はスケッチしか残されていないので、例によってアーだ、コーダの版の問題はよろしい。
さらに、未完成だっちゅーのに、補筆完成させたり、ブルックナーが言ったとか言わないとかで、彼の『テ・デウム』を第4楽章に持ってきて、ベートーヴェンの形式に寄せようとしたり、まあ、2世紀の間に色々考えている。
一時、若い頃ボクも夢中になり、たくさん音楽を抱え込んで聴いた気になっていたことがある。
この最後の交響曲を今聴いて思うことは、Symphonyという言葉の中にある『響き』の多様な広がりが、彼の場合どの作曲家よりも強く、大きくそして、優先されているのではないか、ということだ。
ベートーヴェンはこの分野でも偉大だけれど、シンフォニーの世界はあの第9の歓喜にしても小乗(自己救済)から大乗(全救済)に至る道程を経て閉じて終わる。
設計しつくした後からもたらされる天啓は、演奏の妙に移動し、以後は第9が素晴らしいのか、その演奏が素晴らしいのか時に分からなくなるほどである。
グスタフ・マーラーのそれはどうか。
世紀の終鴛を予感させるデカダンスの果てに嫋々と響き、最後には触れれば血が噴き出しそうな、弦楽の緊張の中に死を受け容れる姿勢が聴ける。
それに対してブルックナーは、どうか。
彼にはそういう構えがない。
『9』という数字が持つ、運命的なものを怖れていた以外は、彼のシンフォニーは自然の中に消えて行くような木霊だけが残る。
人生を回想するように、自作の中の想いが、原始の霧の中を通過して回帰し、蒸発し、ゆったりと流れながら、切れ切れの密やかな息づかいの中で口元に笑みを残したまま消える。
この作品の中から、吹き上がる旋律の個性は、正直言って余り感じない。
それは、常にボクらはブルックナーを通して自然を呼吸してきたのであり、聴いてきたのだから、ここでも、大いなる命の源が持つ普遍に触れているだけなのだと感じる。
原始的で雄大なスケルツォはもはや舞踏であるとかどうとか言う人として捉えうる行為ではなく、山や大地や木々の鼓動のように聞こえる。
彼にとっての交響曲=Symphonyの終わりは、彼自身をよりしろとして彼の心を通過して焦点を結び、後方に一気に放たれる巨大なプリズムのようで、オルガン的な響きも、構造の軋みも、全てが収斂することなく拡散する。
開かれて終わったと感じさせる唯一無二の交響曲であり、自然の中のあらゆる音響が集う大伽藍である。
それだから、僕自身の心がどこにあろうとも、僕自身がその中で生きるものである限り、どこまでも包まれていて、それはブルックナーと距離は遙かに離れているけれど、高さの同じ地平に自分を感じるものなのだ。
自然の音に飽きないようにブルックナーを聴けるのは、作ったものと同じものに包まれている共通感覚から来るのかも知れない。
第1楽章 Feierlich, misterioso
第2楽章 Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell
第3楽章 Adagio. Langsam, feierlich
第4楽章 未完成
この際演奏家の質の問題ではない。
よっぽどひどくない限り、ブルックナーはどう響いてもブルックナーなのです。
『美しい演奏などというものはない。あるのは美しい曲である。』
- アーティスト: シューリヒト(カール),ブルックナー,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
- 出版社/メーカー: TOSHIBA-EMI LIMITED(TO)(M)
- 発売日: 2007/08/22
- メディア: CD
- アーティスト: ベイヌム(エドゥアルト・ヴァン),ブルックナー,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2006/04/26
- メディア: CD
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