昔はもっと長かった [音楽]
シューベルト/交響曲第9(8)番ハ長調D944
第1楽章 アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トッロッポ
第2楽章 アンダンテ・コン・モート
第3楽章 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ
第4楽章 フィナーレ:アレグロ・ヴィヴァーチェ
第9であったり、第8番と呼ばれたり、未完成を除いて第7番と呼ばれたり、果てはグムデン・シュタイン交響曲のリスト入りによって第10番と呼ばれたり、番号では混乱しているけれど、ドイッチェ番号は昔から944。
第6番のハ長調より器楽編成の規模からグレート(大ハ長調)と呼ばれる。
それはどうでもいいけれど、フルトヴェングラーの永遠に続く音楽のうねりを聞き続けていた昔、この曲はずいぶん長く感じたものだった。
同じようなくり返しが多く、聴き通すには彼の後期のピアノ・ソナタと同じような忍耐と集中が必要だったりした。
感覚的なフュージョンやジャズに傾きつつ、聴き続けたブルックナーやマーラーによってシューベルトのこの作品はボクにとってそう長く感じるものでもなくなってきていた。
そして…何年かぶりに仕事をしながら聴いたこの曲はあっという間に終わった。
昔はもっと退屈で長かったように思うんだけど。
気が付けば51分近くが経過していた。
こんなにわかりやすくのびのびとし、器楽の魅力に溢れた曲だったのかと、耳の慣れというのは凄いもんだと思ったね。
死後、歌曲の作曲家として敬意を表すため、シューベルトの家を訪れたシューマンはシューベルトの仕事机の上にそのまま補完されていたこの作品を見て驚愕し、そこに偉大なシンフォニストの遺業を発見した。
シューマンからメンデルスゾーンへ。
ベートーヴェンの再評価がメンデルスゾーンによって行われたように、シューベルトの交響曲作家としての再評価もまた、メンデルスゾーンによって実現されたといっていい。
その、第1楽章。
ホルンの伴奏を伴うユニゾンがスケール豊かな序奏部を作る。シューマンの交響曲第1番やメンデルスゾーンの第2番は明らかにこの曲の影響下にある。
今、ボクはカール・ベームが最も指揮者として充実していた時代のベルリンフィルとの演奏を聴いている。
1981年。19世紀生まれの最後に残った指揮者の一人としてベームはベル・エポックの歴史に幕を引いた。
当時、各国で追悼のテレビ番組が流され、追悼記念のレコードが発売された。
1979年1月20日のドレスデン歌劇場管弦楽団とのこの曲のライブ録音は、生前彼自身がタクトを振ることを最大のよろこびとしていたと語っていたオーケストラとの訣れのシューベルトだった。
ウィーンフィルの主席指揮者として長く、個性集団を率いてきた彼が最後に振りたかったオーケストラは古雅で素朴な音色を持つオペラのためのオーケストラだった。
その演奏は素晴らしかったけれど、同時にオーケストラはその素朴実直な持ち味そのままにベームの老いに戸惑っていた。
良心的なオーケストラが偉大なマエストロの衰えを感じ、その悲しみが聞こえるようで、ボクは淋しくなってそれ以来そのライヴを聴いていない。
ベームのシューベルトにはフルトヴェングラーのようなマジックもなく、カラヤンのような磨き上げきった音色美もないけれど、ボクはこの曲を聴くとき未だにこの古い録音を取り出してくる。
作曲家の書いたとおりに演奏し、音楽をして語らせるという即物性は必要であると思うけれど、それを金科玉条の如く賛美する日本の評論家の創造性を忘れた教科主義には正直いまだに鼻持ちならないものを感じるけれど、ベームの当時の演奏には彼らをも説得する正確と緻密がありながら、その中にあたたかな人間味が感じられ、誠実さに貫かれたインテンポでありながら、音楽がその中に包摂しているエネルギーが徐々に膨れあがり、白熱してゆくスケールを持っている点で、演奏する側の作品に沿いつつも表現を忘れぬ主体性が常に感じられる素晴らしさがあった。
ドイツの血と土の匂いを濃厚に示した天才フルトヴェングラーの劇的な演奏とは違うけれど、コレもまた典型だと思う。
第1楽章を聴くため、ボクはもう一度CDをかけ直した。
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