LINE クリエイター登録を終わって [音楽]
ちょっと試してみようかと思っています。
迎春 [音楽]
復活! できるかなぁ… [音楽]
様変わりしたYouTubeでその曲を見つけました。
1908年に当時のソヴィエト連邦に生まれ、70年後の7月14日に没した。ユダヤ人敵視政策をとり続けた政治体制下で不遇のまま没した。でも、その柔らかで凛としたピアニズムには奪うことのできない心の高さがある。
マリア・グリンベルク
J.Sバッハ/パルティータBWV990からサラバンドと変奏
いくらなんでもご無沙汰です。 [音楽]
いくらなんでも…
海外からのメールに返事するまもなく放置していたら重病を患っているらしいという噂が立ってしまっていて、
何人かの住所を知らせている方からは、達筆の英語で(ビジネスライクにワープロか何かでよこせばいいのに)
ボールペンなんかで書いてくるから読めない。
生きているのですが、もう少し4月の予算が仕上がるまではどうにもなりませぬ。
ブログをこんなに休んだのは今までなかったことでありますが、
もう少し時間がかかりますね。お見捨てなきよう。
猫の画像も時間が限られているので気分転換できる貴重な時間をどう使うか迷いつつ
昔のように夜更かしも出来ず、描きかけのものを幾つか同時に手を付け始めたところです。
もう少し復帰に時間がかかりますかね。
ゼロからのつもりで、時々皆様のブログを覗いております。
3月には岐阜に車でとんぼ返り、5月には滋賀で1泊2日ジジイにはきついので
何年ぶりかで奥さん同行ですわい。
音楽はフォルクマンの弦楽のためのセレナーデ第3番ニ短調からの抜粋。
このドイツの作曲家は音楽的にはドイツ・ロマン派に分類されている。
YouTubeでも演奏のほとんどが削除されてしまって聴いて欲しい作品が次々と姿を消してゆく。
HMVでピアノ三重奏曲がつい最近手元に届いた。
シンプルでリリカル。
それはこのセレナーデも同じ。彼には3曲の弦楽のためのセレナーデがある。
どれもお気に入りなんだけど、YouTubeでは埋め込めないものが多いね。
断固たる19歳 [音楽]
ジョルジュ・エネスク/ヴァイオリン・ソナタ第2番ヘ短調op.6
第1楽章 とてもいきいきと
第2楽章 静かに
第3楽章 速く
1899年、彼が19歳の時の作品。
全盛期に書かれた第3番の高みにはないけれど、いや、この年令で書かれたヴァイオリンの作品としては抜群の完成度。
彼がパリ音楽院に入ったのが15かそこらで、これはその4年後に書かれている。
マスネやフォーレに支持した作曲部門での近代フランス音楽の影響下にあったのは一聴して理解できるけれど、印象派的な浮遊感とグルービィな空気感よりも明確に作曲技法と演奏技術の現実的融点を手に入れている。
晩年彼は盟友であった夭折のピアニスト、ディヌ・リパッティとこの第2番も実演の録音を残している。
その第1楽章は抜きがたい憂いが清新なピアノで洗われながらも蜘蛛の糸のように漂うヴァイオリンの旋律に繰り返される。
フレージングにフランス音楽の香りは漂うけれど、曖昧さはなく、点から点へピシリとした意思が音楽を紡いでいる。
情景は意識の外に追いやられ、イメージは不思議とモノクロームでエゴン・シーレを眺めているような思いをさせる。抒情的で内湛んだ主題はヴァイオリンに顕れる度に深化し、ピアノのクリアな波の上に浮沈を繰り返しては命のように蘇る。
技術的にもそう単純とは思えないけれど、全てが自発性に満ちていて音楽そのものに寄り添う。
高い技術レベルに作品の質の高さが融け合う。
こういうのが妥協のない演奏家が作る楽曲というのだろうか。
第2楽章はなんとも美しい。
表面的なものではなくて第一楽章の主題は旋律面をいっそう浮き立たせて静謐な、思いを押し殺して勁く歩む。
ピアノが前に出るとそこで素晴らしい協奏が生まれ、その後のピアノによる澄んだ表情が浮き上がる。ヴァイオリンは遠くから囁きボクが最も好きな部分へ入る。
絶妙のアンサンブルにヴァイオリンのトレモロが嫋々と流れ、長いフレージングが次第にテーマに戻ってゆく。
なんていうか、すでに頭のなかで音楽は出来てしまっていたのだろうね。
それから考えると幾通りもの演奏っていうのはあまり聴けないのかも知れん。
最終楽章は思い返したようにテクニカル。
ピアノはヴァイオリンを支えるリスムに徹し、
ヴァイオリンはテーマを繰り返しながら気分は全く異なり、変幻自在で即興的。
うん。例えばいくつかの約束事を決めておいてその間をつないでゆくヴァイオリンは霊感の赴くままに走っているような、そんな行書的な速度感と爽快感がある。
非常に舞踏的で煽動的である。
こういうところがヴァイオリニストとしての彼の天賦の才。
マスネやフォレの音楽ではないね。滲んだところが一片もない。
汲み尽くせないね、この先生。
YouTubeには上述した本人とリパッティの演奏もあるけれど、第3番同様現代の演奏家のものをチョイスした。
第2楽章を
Blogの中の猫たち-186 [Blogの中の猫]
CAIMONO日和
和さんちの命名不明のお嬢様
年が明けて一回目のブログ猫。無精してるけどこれだけは何だか続いている。
さて、186回目の猫さんは…
どっかに名前があるはずだと探したんだけど、見つけられない。
キジトラさんともう一匹凄くシンプルな三毛猫さんがいるけれど、キジとミケで済んでいる。
このお嬢様もミケなんだけれど、かなり色合いが個性的ですね。
ジジイくらいの年齢の人でひょっとしたら知ってるかもしれないが、錦鯉(にしきごい)の種類の中に大正三色と昭和三色というのがあって前者は白地がベースで赤と黒。後者は黒字がベースで赤と白。
このお嬢様は昭和三色っぽいね。
でも、こういう柄行も三毛さんには変わりないからやはりオス猫は希少であまり見たことがない。
ジジイはこういう濃いミケさんも好きである。
そして不思議なんだけど、人見知りで奥ゆかしいお嬢様が多い。
名前はあるのだろうけれど、見た目の印象で識別可能だから、人と猫一歩お互いが引いたところで共同生活をなさっているのか。
んなわけ無いか。
極めて個人主義的なネコの本道を行っている猫さんたちなのだろうね。
そうして飼い主さんも似ているのかもしれない。
音楽はショスタコーヴィチの前奏曲とフーガから
24曲全曲聴くと2時間以上ピアニストによっては3時間かかる。
1933年の24の前奏曲はもっと軽いノリの曲だったけれど、この全曲は集中力がいる。
全曲の初演はこのニコラーエワさんが2日間で行った。
ニコラーエワさんのバッハは少しロマンティックにすぎるようにも思うのだけれど、ショスタコーヴィチのこの曲については確信に満ちている。
作曲家が書き上げる作品をその傍らにいてピアノで弾いて聴かせ、その作曲家の全幅の信頼を得た自信から来ているのか彼女にとって特別の作品なのだろうね。
好きな曲です。
はい。
明けましておめでとうございます。 [音楽]
なんということか、この歳になって忙しさがいや増しになり、処理能力が追いつかない。
子どもたちはまだまだ一人前にはならず、当分現役を続けることになる。
今年も大変な一年になるとそんな予想をしているけれど、不定期でもブログはなんとか続けてゆこうと思っています。
気長にお付き合いくださいませ。
1年最初の音楽は迷わず一度紹介したマリス・ヤンソンス指揮のオスロ・フィル 。
シベリウスの『アンダンテ・フェスティヴォ』短いけれど滋味溢れる音楽です。YouTubeにはたくさんの同曲がアップロードされていますが、一つ一つ聴いてみてやはり以前紹介したこの演奏に行き着きました。
今年も良い年でありますように。
マイルストーン [音楽]
リヒャルト・シュトラウス/弦楽四重奏曲イ長調op.2
第1楽章 アレグロ
第2楽章 スケルツォ:アレグロ モルト
第3楽章 アンダンテ・カンタービレ モルト
第4楽章 フィナーレ:アレグロ ヴィヴァーチェ
習作というには練り上げられている。
シューベルトや何よりもモーツァルトの霊感を借りたところもあり、弦楽四重奏曲は17歳の時のこの作品で自分の音楽表現が先人以上のものにはならないと覚悟したのか。
室内楽という分野が自分の居場所ではないと考えていたのか、チェロ・ソナタやヴァイオリンソナタも似たような年代で終わっている。
ドビュッシーやラヴェルが残した1曲と同じ数ではあるが、やはり才能の趣が大きく異なり、自分の学んできたアンサンブルで可能な創造が過去の先人たちを通過してきたものに他ならないという意味が大きいように思う。
つまり、なんだ、『ちょっと創ってみました』的な。
それでもね、第3楽章は美しいね。標題音楽以前の彼の血の中にある音楽表現で最もいい流れを聴かせてくれている。
チェロが雄弁に歌う部分のシューベルト風の歌は彼岸の向こう側に立つ自分の姿を見つめるような悲しみには届かないけれど、そういう静謐な音楽をそこで生み出せる才能のきらめきを見せて余りある。
以後この分野を振り返らないシュトラウスのアンダンテは歌曲や後の交響詩の中の弦楽合奏に姿を変える。
残念なのは演奏者の熱が旋律を美しく追うだけにとどまっていて第1楽章からフィナーレまでの起伏に必ずしも共感しきっていない気がすることだ。
「17歳の音楽にそんなに頼り切るなよ」と呟きたくなるね。
YouTubeではこの第3楽章。もう少しメリハリがあれば第1楽章もいいのだけど。
彼女が両手を突っ込んでいるのがにゃんこの毛の手触りによく表現される『モフ』の原型。
16世紀のからの女性の防寒具である。
ロータス・カルテット~オペラハウスを席巻した3人の作曲家の弦楽四重奏曲~
- アーティスト: R・シュトラウス・ヴェルディ・ロッシーニ,ロータスカルテット(小林 幸子)(藤森 彩)(山﨑 智子)(マティアス・ノインドルフ)
- 出版社/メーカー: ナミレコード
- 発売日: 2014/05/25
- メディア: CD
Blogの中の猫たち-185 [Blogの中の猫]
ザッキーハウス
K.Miyazakiさんの実家のチャオちゃん
えー、このシチュエイションは初めてだね。
でもボクはこの絵の元になった小さな写真がとても気に入ったのでした。赤と金の絨毯に長々と体を伸ばした彼女の瞳は金色でそこから彼女の空間がその瞳の色に支配されているような、光があふれている写真でした。
野性的な目の力と静が一瞬でどうに変化するフレキシブルな筋肉がしなやかな体毛の中に隠れている。
その静の中の躍動の気配が好きです。(この次に寝ちゃってるかもしれないけれどね。静の次にさらに深い静。それが猫だね。)
対象が小さく、画像の詳細がよくわからないので体色や額のスジ模様については他の写真を参考に、色目もそこから採ったりしています。
AscentivのSweep系のソフトを使ったためか、その後ユーザープロファイルが壊れたらしく、起動する度に使い慣れたソフトやパソコンのディスクトップが全て初期化されてしまい。使う度に元に戻さねばならず、面倒くさいったらないね。
復元をやろうとしても、WindowsXPの環境も使用するために2つのOSを入れている関係でスペースを確保するためにバックアップを削除していたものだから、うまく機能しない。
以前XPの時にも一度このソフトで不具合が起きたが、その時は復元できるバックアップが残ってた。今回はダメ。
レジストリを触るのもちょっと怖いしねえ。
ボクのパソコンを長年制作してくれるところへ持ってゆけば直してくれるだろうけれど、その暇がない。
当分不便のまま絵を描いたりしている。
オリジナルのカラーパレットも筆もすべて初期化されるけれど、すべてバックアップを取ってあるのでそこから読みこめばいいんだけど、ほんとに面倒だね。
ま、とにかくそのような環境で何とか仕上げたのでした。
その時流していた音楽はヤナーチェクのOn the Overgrown Path
『茂みの中の小径』全集ヤナーチェックのモラヴィアの民族的色彩が強い第2巻を。
ヤナーチェクの音楽は同じチェコでもドヴォルザークやスメタナのドイツ・オーストリアの様式に則った上で民族を謳歌するボヘミアと異なり、様式よりも感性がモラヴィアの音楽を導く。
スラブ色は意識せずとも情景音楽のような自由の中に自然な深呼吸のように吐き出している。
タイトルバックの絵は初期のゴッホの絵で白い服を着た少女とこの絵の少女とか森と女性を描いたものがいくつかある。
彼の晩年の色遣いからはかなり違っているけれど、音楽のいくつかのシーンにはピッタリですね。
音楽が留める涙 [音楽]
ヤナーチェク/ アンダンテ
弦楽合奏のための楽曲を彼はいくつか残している。
その幾つかはとても美しく、彼のオペラ『利口な女狐の物語』の中のアダージオに見せられたボクは一時期彼の弦楽合奏曲を探しまわって聴きあさった。
アンダンテでは牧歌的な弦楽オーケストラのための『牧歌』の第1曲が美しい風景を描きこんだおだやかな望郷的作品でボクは好きなのですが、
ここで聴くアンダンテはそれとは違う。
上記の作品がドヴォルザークを思わせる雰囲気を持つのに対し、この曲は悲しむべき闘いの跡の黒く焼け焦げた匂いが鼻を突く中に煤だらけの顔を上げて立っている若い母の姿を思い浮かばせる。
彼女は決して為す術もなく呆然と立ち尽くしているのではない。
失ったものの大きさを知っている。
彼女が待ち続けた者の帰郷がただの望みになったとしても、それでも
彼女の心の芯の中に勁く、しなやかに残っているものは失われることはない。
愚直なまでの現状肯定とそこから飛躍する力が、瞳の奥に光を宿している。
涙は瞼の縁にとどまり、頬を伝うことはなく、やがて煙に燻されて揮発する。
灰色の厚い雲間に澎湃と光が射し
焦げた大地に斜めに影を落としたその母の足元に同じ覚悟の目をした幼子が彼女の粗末な上着の袖をしっかり握りしめて
ただ黙って立っている。
彼女の右手はすべての思いを伝えた後の安息の優しさでその小さな頭に置かれ
自らと子供のために言い聞かせる。
「Wir leben hier」